1924年11月24日生まれの羽藤淑子(旧姓・藤田淑子)の父方先祖は、新白河の南湖公園近くの棚倉で数百年前から住んでいた家系でした。 幼少の頃から絵を描くのが好きで画家になるのが夢でした。戦前の日本では女子は東京美術学校(現・芸大)には入学出来ませんでした。ずっと女子高にいた淑子は、女子美には行かず個人の先生に習っていました。その時、「絵描きになるのは、そうとうな覚悟がいるよ、諦めたほうが楽かも」とアドバイスをしてくれたのは、片岡球子先生でした。 淑子は美大に行かず、東京銀座の画廊を見て回って自分に合う先生を探していました。ちょうどその時、銀座資生堂ギャラリーで朔日会第2回か3回展が開催されていて、絵のポリシーが自分にとても合うと気に入って、「この絵の方に教わりたい」と会場にいる人に尋ねると、朔日会の創始者の羽藤馬佐夫だった。女性として会員第一号となった。 後に結婚をした時は、まだ10代であった。戦火の中、朔日会のメンバーも次々と召集され、淑子一人で小さな画廊で展覧会をやっていた。 やっと戦争が終った頃、東京都美術館で空きが出来たので「朔日会展を急遽やるなら」と打診された時はまだ数名しか会に戻ってきていなかった。しかし20代前半の淑子は旧メンバーなどの絵を集めて何とか開催できたのだった。又、子供もいて、絵も描き家事と家計もやりくりしながら、大好きな絵を描き続けた。 やはり福島県人の頑張る力が人一倍、福島人のDNAを引き継いでいるのかと思わないではいられません。2002年4月に77歳で少し早い人生を終えましたが、画家として素晴らしい作品を残したと思います。息子の恒郎・朔郎2人が朔日会を継、自分達も福島県で巡回展を開催できる喜びと幸せを本当にかみしめております。一人でも多くの県民の方々に羽藤淑子の絵を見ていただき理解していただきたいと存じます。